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2011年 06月 01日

西南戦争史跡ー田原坂

先日、西南戦争の激戦地・田原坂を歩こう会の仲間44名を案内して歩いた。
「雨は降る降る人馬は濡れる 越すに越されぬ 田原坂」と唄われた田原坂です。

現役時代、出張などでJR を良く使って、田原坂の麓を通るたびに訪ねたいと思っていた。
所在地は今は熊本市に合併された植木町です。


田原坂北西側登り口                                           田原坂・二の坂

西南戦争史跡ー田原坂_d0124388_17132486.jpg西南戦争史跡ー田原坂_d0124388_1759955.jpg












薩軍はこの丘の上に陣地し、
熊本城(鎮台)救援のため南下する官軍を阻止しようとした。 一方 官軍はこの上り口から薩軍を攻め立てた。
しかし官軍・鼓笛隊に合わせて進軍するナポレオン式の隊列は細い谷の両サイドに繁茂する樹林で待ちうける薩軍に阻まれ
越すに越されぬ田原坂となった。

だが官軍にとって、田原坂だけが熊本へ砲兵隊を送る唯一の道だった。
官軍は17昼夜に亘った戦闘で1日平均32万発の砲弾を使い激闘、
さしもの薩軍も敗走せざるを得なかった。


西南戦争史跡ー田原坂_d0124388_18261627.jpg丘の上に設置されている美少年像

田原坂の丘は田原坂公園として整備されて、
西南の役の様々なモニュメントが設置されている。
その中の一つ
右手に血刀 左手に手綱 
       馬上豊かな美少年
」像
(美少年の後ろのクスノキは加藤清正が植えた)

民謡・『田原坂』で越すに越されなかったのは官軍、
  美少年は薩軍の少年兵がモデル。





西南戦争史跡ー田原坂_d0124388_22385854.jpg


 官軍の戦没者

西南の役戦没者慰霊碑もモニュメントの一つだが、
官軍6,923名薩軍7,186名全員の名を
両軍に分け、出身地別に氏名が記されている。

両軍の戦没者の名前を見ると微妙な違いがある
薩軍兵士の名はいかにも武士らしい名前が多い。

対して官軍兵士の名は平民らしい名前が多い。
当時既に徴兵制が施行されており、官軍には
平民が多かったことが名前からも伺われる。


西南戦争史跡ー田原坂_d0124388_22403865.jpg



 薩軍の戦没者

西南の役が当時の士族政策、
廃刀令や金禄公債証書などへの反発する士族と
新政府の対立と単純化することは出来ないが、
戦没者の名前からその側面を見ることが出来る。













田原坂は熊本と福岡を結ぶ加藤清正が作った幹線道路で、
西南の役当時は官軍も熊本鎮台に物資補給するには田原坂を通らざるを得なかった。
だがこの田原坂は清正が熊本を外敵から防備する仕掛けでもあったそうです。

道を掘り下げ狭くして、更に一の坂から三の坂までジグザグにくねらせ、
田原坂の丘の上から進入する敵が丸見えになるように作っていた。
薩軍はこの地の利を利用して官軍を防戦した。

以上の説明は当日ボランティアガイドから聞いた話しです。
しかし、どうしても分からなかったことは西郷が戦争を始めた理由です。
不平武士に担がれた、大久保利通との確執などなど様々云われるが・・・

しかし兎に角この大きな尊い犠牲の上に、
日本が一丸となって近代化・富国強兵に進めることが出来たことは間違いないでしょう。


by dojyou38 | 2011-06-01 14:25 | アウトドアー | Comments(10)
Commented by hibochan at 2011-06-03 08:11 x
熊本城二度ほど訪れてますが西南戦争の激戦がしのばれます。
田原坂の戦いの詳細が理解できました。
大昔熊本から鹿児島へ向かう途中なぜか三太郎峠の名前だけ妙に
記憶にあります。この峠も戦いに関係あったのでしょうか?
Commented by dojyou38 at 2011-06-03 09:33
三太郎峠、九州に30年も住んでいますが知りませんでした。 地図好きの私にしては迂闊でした。
調べると、国道3号・JR鹿児島本線の熊本~鹿児島県境近くの3つの大きな峠・難所の総称ですね。
 
このルートは西南の役には直接大きな関わりはなさそうです。
西郷軍は進軍も撤退も、この難所(八代海側)を避けて人吉ルートを通ったようです。
Commented by akikohervy at 2011-06-03 14:16
お元気のようですね。 充実した毎日で楽しんでいらっしゃいますね。 何歳になっても知りたいこと、見たい国は果てしなくあり、時間が足りません。  Ando
Commented by dojyou38 at 2011-06-03 16:35
akikohervy さん
お久しぶり、最近お目もじしませんね。お元気ですか。
たまには例会に顔を見せてください。
Commented by taminamikawa1 at 2011-06-04 16:15
田原坂ウォーク、おつかれさまでした。
あの有名な「雨は降る降る人馬は濡れる 越すに越されぬ 田原坂」と民謡にまでなっている『田原坂』には是非、尋ねたいと思っておりましたので、実現でき、ありがとうございました。
楽しいウォークができ、思い出の1日になりました。
Commented by ジジイのたわごと at 2011-06-04 18:16 x
このブログをSNFで紹介されたらいかがでしょうか?
詳細は、dojyou38様の「ブログアドレスを参照」とされたらいかがでしょうか?
歩こう会のメンバーは大歓迎だと思います。
Commented by dojyou38 at 2011-06-04 20:12
taminamikawa1 さん
私も田原坂の名を知ったのは高校時代、民謡「田原坂」です。
それ以来一度は訪ねたいと思っていましたが、やっと念願かないなした。
Commented by dojyou38 at 2011-06-04 22:56
ジイイさん
ブログ評価いただいて有難うございました。
私のブログはそんなに皆さんに見ていただけるようなものでは有りません。
ただ、既にSNF歩こう会の多く?の方に見ていただいて、時々コメントも戴いております。
また今までも、面白いと思ったときは歩こう会MLにUPさせていただいたこともあります。
Commented by Uchan at 2011-06-05 10:50 x
熊本城と水前寺公園へ会社の団体旅行で行きましたが、宿宵ぎみであまりよく覚えていません。
 西南戦争は士族の処遇で征韓論で西郷の意見が取り入れ無かったと記憶しております。
Commented by dojyou38 at 2011-06-06 16:25
当時の士族の政府に対する不満と西郷の征韓論無しには西南の役は語れないでしょう。
西郷も最初から反乱を起こす積もりで、私学校を作ったのではないと思うが、
島津藩という全国最強の軍事大国(藩)の素地があのような大きな内戦になったのでしょうね。


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